第八十三回「テキトー」

なんだか、私、考えすぎていたかもしれない。

テキトーに嘘つかずに生きようか。という小言を今日は少々。

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第八十三回・テキトーだと思っていたことが実は適当ではない

考えすぎじゃない?と思うこともあれば、もっと考えた方がよいんじゃない?

みたいなことって、誰にでもあると思う。

私は、そこを見極められる自分でいたい。

そして、できるだけ向き合うことを恐れずに、且つ頑張らずに生きたい。

先日、こんなテキトーな人たちがいた。

ここからは私の見解です。(大目にみてください。素直な感想です。)

まず、テキトー過ぎて、自分にしか愛が向いていない人。

いつのまにか可愛い(かっこいい)自分を繕っていて、本人を目の前にして話していているのに偽者に思えちゃいました。

それに自分自身にしか愛が向いていないということは、誰かを愛することができない=誰にも愛されない。てゆう。

その愛の矛先もごく小さな範囲となると、世界が小さい=見える景色には限界がある。

だからさ、隠さない適当な自分がいいよね。

次に、テキトー過ぎて、自分自身と向き合うことを止めていた人。

この人は、潔く私はこれでいいんだ。って、そこと向き合うことが出来たらその先の世界(扉の向こう)が待っている気がした。

程よくテキトーに生きることで安心安全な世界を選んだとも言える。

だからね、ちょっとの冒険心を持つと、より経験値が増える=人生をさらに楽しめるんじゃないかな。

次の次は、いつも考えすぎるから出来るだけテキトーにしようと努めていた人。

分かり合えないなら潔くいかにテキトーに振舞うかというやつです。

根本的に、そこに愛があるならば私は最強だと思った。

テキトーテキトー言ってますが、結局のところ自分がどんな自分自身で生きたいかに尽きる。

わたしは”私自身”にしか選択肢はありません。

全部選んでいるのは自分。

みんなも私も適当に生きよ。

今日はここまでです。

読んでくださりありがとうございました。

このブログが何かのきっかけになってくれたら嬉しいです。

愛と光を込めて。

※尊敬するヨガの先生がブログのさいごに必ず愛と光を込めて。と、いってくださるのが好きで私もそえることにしました。

ではまた。

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